つくたべ

つくたべ、「作りたい女と食べたい女」は面白かった。

「孤独のグルメ」が新シーズンでは、中国のひとたちのファンが編集カットしたヴァージョンのようになって、前半のドラマ部分と久住昌之が実際の店を訪問する部分がカットされて、中国式の「孤独的美食家」になってしまったので、「日本の食べ物」が出てくるドラマを物色していて行き当たった。

観ていて安心できること、心が安らぐこと、いきなり覆面の男が現れて強姦されて殺されたりしないこと、等々の「おっかないことがなにも起こらない穏やかなドラマ」であってほしいテレビドラマの要件がすべて守られている。

初めのほうのエピソードを観て、おお、これは面白そうだ、と考えたので、二度あった最終回の第十回と第三十回を観てから、またシーケンシャルな見方に戻って、一気に全エピソードを観てしまった。

告白すると、そのあと、また30エピソード、全部、見直したんだけどね。

旅先で、なにをやってるんだか。

どれどれ、日本社会では、どんな受け取られ方をしているのだろう、と、覗いてみると、

流石は地獄のおじさん餓鬼が獲物を求めて彷徨するという日本語X-twitterで、

「物語が薄い」

「作者の前身BL作家が透けてみえる」

「演技が下手」

「設定が非現実的」

はては、「野本さんが気持ち悪い」と延々と悪態が並んでいて、予想しなかったわけではないが、

まあ、だいたい、いつもの過大自己評価おじさんたちの「おれなら、もっとうまく作れた」のエラソー意見に満ちています。

春日さんも野本さんも、はまり役で、言いたいことも、よう言わない訥弁、と懸命に相手のことを考えて、こうだとしたら、ごめんなさい、ちゃんと「思い」が判らなくて、ごめんなさい、と謝ってばかりいるところが日本ぽくて、とても良い。

なにしろ謝るタネを探すのが忙しくて、会話らしい会話が成立しない。

これは本人(←わしのことね)の好尚に過ぎないが、特に春日さんの、ジッと考えて、

やっとのことで言葉を押し出すように、でも決然と述べる様子が好きで、なるほど、こういう相手なら惚れるんだべな、と、わしにとっては、説得力もリアリティもある設定でした。

セカンドシリーズから引越してくる「南雲」さんも、自信のなさそうな、なにもはっきり言えない、そういう言い方をすれば、なにを考えているのか、さっぱり判らない若い人像も、むかし、ボランティアで会った日本からの留学生そっくりで、ああ、そうだったなあ、こういう人いるんだよなあ、いいなあ、と考えた。

前に書いた、こうなるといいね、の日本像、自分にとって新しいものや、うまく理解できない人と出会ったときに、「そうなんだね」と、まず受け入れてしまえるところは、

日本社会が、やたらとなんにでも自分の価値観や、簡単に言ってしまえば狭いうえにやたら理屈っぽい「正義」に満ちた世界観を振りまわす、コントロールフリーク社会であることに、うんざりしはじめていて、あんな「正義」をいちいち聞いてやる必要はないんではないか、と考え始めているのを感じさせて、ほんとだよね、とひとりごちる。

日本語X-twitter上の批判おじさんたちが述べるように、稚拙で、ぎくしゃくして、粗筋じみているかも知れないが、それでも、他の、例えば同じNHKの大河ドラマや鳴り物入りの連続テレビ小説に較べれば、遙かに異和のないドラマだと考えました。

「日本の普通の人」が、たくさん出てくるドラマで、このあと、「日本の人って、どんな生活をしているんだろう」という人が現れたら、この「つくたべ」を薦めることになりそうです。

派遣プログラマと派遣の卸屋社員で、あんな立派なアパートに住めるわけない、だからダメだ、という人が多いようだけど、それはテレビドラマの文法を知らないだけのことで、

例えば「フレンズ」の設定などは、失職していたり、パートのウエイトレスであったり、スーシェフですらない「ヒラ」のシェフであったりの若いひとびとがセントラルパークを見下ろすアパートふたつに蟠踞している、なんて設定のほうが、遙かに非現実的で、テレビには、むかしから、観ている人に、スクリーンのなかの「現実」を受け入れやすくするための工夫された文法がある。

それを、なんだか四畳半一間のユニットバスの「現実的な」設定にしてしまっては、わしなら、観る気がしなさそうです。

春日さんが、実家からの介護の要請を、きっぱり断って、自分にはもう家族はいないんだ、と決意するところは、とても良い。

同性を好きになったひとびとが、互いに助けあって、社会のなかでの孤立を十分意識しながら、積極的に「自分と異なる」ことを「そうなんだね」と受け入れて、前に進んで行こうとする姿は、考えてみると、日本社会全体が復活するためには、こう考える以外にはなさそうで、こんな意外なところから、日本が復活する希望が芽生えていることを知って嬉しかった。

日本は、女の人たちへの激しい差別で、世界中に知られているが、

その、社会に踏みにじられた人生を歩く女の人たちのなかから、日本の希望が生まれてくる、ということになりそうです。

このドラマを支えている社会観が共有されるとき、日本は変わりそうな気がする。

そんな、おおげさな、ときみは言うだろうけど

寄り添うことをおぼえた、ふたつの孤独な魂ほど、この世界で硬度の高い結び付きはないのだから



Categories: 記事

3 replies

  1. 大袈裟なんて言わないよ。映像を見るだけの気力がないので、ドラマをみることができなくて、ガメ氏の文章を読んでの感想になるんだけど、だから、ドラマも見ていない独りよがりな、又聞きによる意見になるけれど、「過大自己評価おじさんたちのエラソーな意見」がなくなれば日本はどんなに住みやすい場所になるか、って思うよ。本当に。所詮、彼らはtalkerなんだよね、doerではない。実践者じゃなくて批評家。いや、批評家ですらない。なぜなら、批評家は作り手を批評によって高次に押し上げる存在だから。ああ、これが足りなかったんだな、次はこうやってみようっていう、作り手の創作欲を掻き立てる存在。結局、そういうことができる批評家って、その人自身が作り手なんだと思う。何かを作る人でなければ世の中を変えられない。何も作らない件のおじさんたちよ、どうか余計な口を挟まないでほしい。黙っていてほしい。「つくたべ」の登場人物たち、好ましい方たちですね。

  2. 画面に映る小物が気になって、人間の機微の表現は見向きもしないところはアニメオタク(特にロボットアニメのオタク)的だね。

    でもまぁ、日本に住んでいて、彼らの横を通りがかる者として、その本音は分からなくはない。

    結局、派遣社員であんな綺麗なマンションに住めるわけないじゃないか、帰ってから飯を作る暇がどこにある?シワのない綺麗な洋服なんか一枚もありゃしない。そもそも、服を買いに行く気力も残ってない。結局アンタたちは、俺達が生きてる襤褸切れのような現実には見向きもしてくれないんだ。所謂、氷河期世代という人達を、日本政府と社会は、最後の最後まで救おうとしなかった。いくら非情といえど、まさか本当に、最後までなにもしてくれないなんて、ひとつの世代を丸ごと見捨てるなんて。そのうえ、もう終わったこととして、忘れ去ろうとしている。

    あまりに酷い。酷すぎる。

    呪ってやる。呪い殺してやる。

    社会の側は、鼻で笑ってまんまと見殺しにしてやったつもりでいるが、彼らの呪いは社会のアチコチで黒ずんだシミになっていて、日本人に不幸があるたびに、そのシミから笑い声が染み出してくる。

    彼らの呪いをどれだけ振り払えるかが、新しい日本人の希望を守れるかどうかを左右すると思う。

  3. シーズン2は観ていました。近頃は観たいドラマだけ録画して観ていますが、それらのなかでもこのドラマは一番安心していられてホッとできる時間でした。

    >積極的に「自分と異なる」ことを「そうなんだね」と受け入れて、前に進んで行こうとする姿

    まさにこの自分と他者の違いをごく自然に受け入れるスタンスがこのドラマをやわらかくしているのだと思うし、現実社会でもこのような感性がじわじわと浸透してきている気もします。

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