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  • 日本史 第三回 片方しか翼をもたない天使たちについて

      有栖川公園の丘の上にある図書館から、ひとりの若者が出てきたところだった。 若者、といっても、ぼくの眼にはまだ子供で、ひどく痩せていて、膝が突き出たジーンズに、ブラシもしていなさそうな長い髪がほどんど肩にまでかかっている。 おまけに本人は気が付いていないが、上下に「ひょこたん、ひょこたん」と音がしそうな歩き方で、それなのに足をひきずっているような、不思議な歩き方をする。 角の交番のところまでくると、立ち番の若い警官をちょっとにらみつけるような顔をしながら信号を待っている。 昼ご飯を食べてから午後の古典文学の授業に出ようとおもっていたが、めんどくさくなった。 なだらかな、長い坂を下りて広尾駅に出るか、産院下の交差点に出て、そこから坂をあがって都営バスで渋谷に出るか、あるいは、平坦だが距離が長い、中国大使館の前を通って材木町の交叉点に出る道を行って、六本木に出るか、 なんだか毎日おなじことで悩むので、いっそ月、水、金は広尾駅から日比谷線、というように決めてしまえばいいのではないかとおもうが、それもバカバカしいような気がする。 午後の授業に出る気がなくなった理由は、いつもの怠惰だけではなくて、昼ご飯にでかけた定食屋で見た光景のせいでもある。 学園紛争が長かったので、とっくのむかしに学生食堂が逃げ出した学校のなかには、ひどく不味いパサパサした菓子パンを売っている、近所のベーカリー「キクヤ」の出店以外はなにも食べ物を調達できる店がなかったので、もう中学生の頃から、きみは学校の外で昼ご飯を食べるのに慣れていて、いちばんおいしいのは西武グループの堤の家がある坂のうえの交叉点にある「キッチンあき」だったが、ここでは3年生たちが幅を利かせていて、カウンター席だけの店内なのにコーヒーまで注文してくつろいでいるので、 「おい。ふざけんなよ。午後の授業がはじまっちまうだろう」と後ろから立って待っている2年生が声を荒げても、 「うるせーぞ、2年坊主、おまえら、ここで食べるのは百年早いわ。 下の那須まで走っていって食ってこいよ」と集団でせせら笑う始末で、埒があかないので、倍近く払わねばならないフィッシャーマンズワーフに出かけなければいけないことも多かった。 その日も、そういう事情で、フィッシャーマンズワーフに出かけたが、店内に一歩入ると、3年生も2年生も店のコーナーにおいてあるテレビの画面を見つめている。 なんだろう?と思って見ると、雪のなかで機動隊が伏せている。 軽井沢のあさま山荘というところで、「連合赤軍」が銃をもって籠城しているのだという。 きみの高校のなかにも、赤軍派はいた。 戦旗派叛旗派がいて、青年解放同盟がいて、あとはお決まりの中核派、革マルといて、革マルの幹部だった世界史の教師は横浜線で中核派の集団に襲われて頭蓋骨陥没の重傷で休講中だったりしていた。 でも「連合赤軍」という名前は初耳だった。 顔にみおぼえがある3年生の背の高い男が「殺せ!殺せ!やっちまえ!」と叫んでいる。 そのまわりで他の3年生たちが、げらげら笑い転げている。 「マルキなんて、みんなぶち殺せ」 きみも実は通りに出てヘルメットをかぶったことがある。 学校の友達の誘いはぜんぶことわって、深夜、こっそり相模原にでかけて、戦車の搬入に反対して集まっていた大学生たちに混じって、どのセクトにも属さないことを示す黒いヘルメットを手にして、デモの隊列に加わった。 結果は、ひどくがっかりさせられるもので、実際に加わってみるとまるで軍隊で、見るからに軽薄なリーダー格の演説がうまい大学生が、最前列に並べた高校生たちに逃げるな逃げるなと叫びながら、機動隊が放水車を前面に押し寄せてくると高校生たちを盾にするかっこうで、一目散に逃げていった。 逃げていく後ろでは、高校生たちが機動隊員にジュラルミンの盾で殴られ、女の高校生たちは髪をつかまれてひきずりまわされて泣き叫んでいたが、リーダーたちは振り返らなかったので気が付きもしなかっただろう。 きみの姿をみかけたらしい3年生が、次の日、「おまえ、いったいあそこで何をしていたんだ。公安の犬じゃないのか」と述べたので、きみはすっかり嫌気がさして、そのまま学生運動と名の付くものには背を向けてしまった。 その3年生が、公安が高校生たちのなかに放ったスパイだったと判ったのは、ずっとあと、大学を卒業してから、友達に初めて聞いて知った。 政治というものはそういうものだと、その頃にはもう判っていたので、ただ、そうだろうな、とおもっただけだった自分の気持ちを、きみは見知らぬ人の心をのぞき込むような得たいのしれない不思議なものだとおもうようになっていきます。 「時の時」という、いまではもう使われなくなった言葉がある。 きみが麻布の丘の上にある学校で中学と高校時代を過ごした数年は、日本という国にとっての「時の時」というべき時代だったのだとおもう。 誰にも言わないだけで、「世の中のために働きたい」という都会人らしくない、当時の日本人たちが聞いたらふきだしてしまうような純粋な気持ちでおもいつめて、本郷の大学を出ると、きみは大学院をあきらめて、といっても成績や家庭経済の理由ではなくて、人文系の大学院に行く級友たちに馴染めなかったからだけども、仕事につくことにする。 選択肢は朝日新聞社という新聞社と大学院と公務員で、結局きみは上級公務員試験を受けて、霞ヶ関に通う毎日を選ぶことになる。 振り返ってみると、その頃の日本は、自分達では一人前の先進国を自認していたが、ほんとうはまだ中進国くらいの社会でなかっただろうか。 後年、きみが霞ヶ関官庁のありかたにすっかり嫌気がさして、国費をつかって、でもひそかに日本には戻らないぞと決めて向かったボストン郊外のケンブリッジという町で、おなじ学校を出た、それなのにあの学校ではときどきあることで、あんまり見かけたことのない顔の日本人がいたでしょう? いつもUnoピザで、おもしろくもなさそうな顔でピザを食べながら、ピッチャーのアイスティーを真冬でもガブ飲みしていたあの奇妙な日本人は、実は、あとになってぼくの叔母と結婚するひとで、いまでもときどきスカイプで話したりするんだけど、あのひとは朝、わざわざいちど日比谷に戻って、高校へ行くまえに、三信ビルの地下にあったアメリカ人相手のダイナーで、一杯のウイスキーとステーキサンドイッチを食べてから学校へ行くのをしばらく習慣にしていたのだけれど、ちょうど日比谷線の出口から出て坂をのぼる頃になると、長身のイギリス人の双子の姉妹が学校へ行く途中であることが多かったそうです。 「ところがね、この双子の高校生のねーちゃんたちがジャガーに乗って学校へ行くんだよ!」と、いつか、この義理の叔父が興奮気味に話してくれたことがある。 金髪で背が高くて、すんごい美人の双子の姉妹なんだけど、毎朝みるたびに、 なにがなし、日本はまだまだダメだなあ、おれたちはビンボだし、ダメだ、とほとんど意味もなく考えた。 悪い癖で、そのときは言わなかったが、実はぼくはこの「双子の姉妹」を知っていて、あのふたりは当時高校生ではなくて休暇中の大学の一年生だったはずで、クルマもジャガーではなくてMorgan… Read More ›

  • 象眠舎・小西遼さんへの手紙

      ひさしぶりに遼さんの手紙が届いたので、おおお、今年はいいことがあるかな、と喜びました。 この前は年末に象眠舎プロジェクトのビデオリンクを送ってもらったときだったかしら? 読んでみたら 『「いい音楽」と「消費物の音楽」については僕も最近ずっと悩んでいます。僕はきっと意味のある、大事な音楽を作ってみたいと悩みながら作っています。』 と書いてあったので、遼さんみたいに才能がある人でも悩むのかあ、と驚いてしまったが、考えてみると、ぼくが滅多に悩まないのは才能がないからなので、ちゃんと符丁があっている。 素人であることのよさは、あっと驚くような大胆なバカなことを自覚もなしに言えることで、遼さんは普段音楽人しか会わないので、少し、そういうところから離れて、ゲゲゲな方へでかけて、一緒に「消費物の音楽」を訪問してはどうだろう、と考えました。 60年代の日本語記事を読んでいて、びっくりするのはポール・マッカートニーの「Yesterday」がほとんど神格化されていることです。 「モーツアルトの小曲より、ずっと素晴らしい」なんてのはunderstatementなほうで、恥ずかしくて、ちょっとここに書く気にならないような絶賛がつらなっている。 あの曲は、固より、1600以上のカバーがある曲で、多分、世界でいちばんカバーが録音された曲だとおもいますが、ではあれが、最高の「いい音楽」かというと、そんなことはない、とおもう。 ぼくの頭のなかでは失礼なことに「すごくうまくいっちゃった流行り歌」なのですよね。 英語人でも歌詞を聴かないで曲だけ聴いている人は、たくさんいるが、彼らに幸いあれ、歌詞を聴いてしまうと、ちょっと困る歌でもあって、 Yesterday All my troubles seemed so far away Now it looks as though they’re here to stay Oh, I believe in yesterday Suddenly I’m not half the man… Read More ›

  • サバイバル講座1

    個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。 漠然としすぎているかい? 例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。 医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。 わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。 医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、 あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。 絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか? 「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう? でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。 商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか? ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。 でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。 そういうとき、きみなら、どうするだろう? ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。 足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。 むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。 奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。 食事を抜いても、読みたい本を買った。 ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。 あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。 この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。 東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。 日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。 英語国でも、割とマッチョな業界だけど。 ああ、そうなんですか? 要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね? と述べて、舌をだして笑っている。 わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。 日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。 受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。 おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか? 日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。 文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。 わたしなんか、それで、英文学ですから! もう最悪で。 ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう? 教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。 旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。… Read More ›

  • 「日本のいちばん長い日」を観た

        もう誰だか忘れてしまったが終戦からしばらくした日の夜更けに偶然お堀端で米内光政にでくわした人が書いた文章を読んだことがある。 この聴き取りにくいほど東北訛りのつよい、最初から最後までアメリカとイギリスを敵にする戦争をやって勝てるわけがないと主張して、開戦の前も終戦のときも、内閣に席をしめていた海軍大将は、かすりで、暗闇のなかで、たったひとり、お堀端の草地に吹上御所のほうを向いて正座して、号泣していたのだそうでした。 あまりの異様な光景に米内光政を見知っていたこのひとが声をかけられないでいると、そのうちに、元海軍大将は、「陛下、申し訳ありませんでした、陛下、米内をおゆるし下さい」と言いながら、その場でくずれおちるように地に伏してしまった。 このブログ記事でずっと見てきたとおり、戦後の日本マスメディアの太平洋戦争観は美化されすぎていて、とてもではないが、まともに相手に出来るものではない。 ツイッタでも「特攻などは、ただの犬死にで、そこには美しさなどかけらもない」と書くと、長くフランスに住んでいる日本人の女のひとが「国を思って身を捧げた特攻隊員の気持ちを『ただの犬死に』だなんて許せない」と言ってくる。 だが当時の「特攻隊員」が戦後になって残した証言は、たくさん残っていて、名のあるひとならば城山三郎のような作家から西村晃のような俳優がいる。 あるいは、なぜか同じ人であるのに日本のマスメディアのインタビューに対しているときよりは遙かに率直明瞭に証言を述べているBBCやPBSに出てくる無数の元「戦士」たちは、異口同音に、「志願制」のからくり、特攻強制のために故郷に残された家族を人質にとってしまう日本社会の残酷さ、ある場合には、このひとは本人が中国戦線以来の歴戦のパイロットで、軍隊のなかで一目も二目もおかれる立場で、上官といえども、星の数よりメンコの数、無暗に居丈高になれる相手ではなかったからだろうが、日本社会の文化慣習からおおきく外れた行動をとったひともいて、 「自分は通常の急降下爆撃のほうがおおきな戦果をあげる自信がある。 出撃して艦船を沈められなかったら、そのときは殺してくれ」と上官に直訴しても退けられ、ではせめて敵がみつからなかったら帰投することを認めてくれ、と述べると、 それも許されない、死ぬ事が最も肝要なので、そうまで言うなら爆弾はボルト止めすることにする、と告げられた飛行隊長もいた。 爆弾をボルト止めする、というのは着陸しようとすれば爆弾が爆発して間違いなく死ぬということを意味しています。 むかし、ロンドンのカシノで会ったアメリカじーちゃんに、じーちゃんが目撃した彗星艦爆パイロットの話 彗星_ある艦爆パイロットの戦い を聞いたときには、いまひとつピンと来なかった自爆の理由が、いくつかのドキュメンタリを観て判った。 たとえ生還しても銃殺かボルト止めした爆弾を抱えた再度の特攻出撃命令が待っているだけで、それほどの屈辱的な死を選ぶより、自分が戦場として数年間を戦った海で死んだほうがよい、と考えたのでしょう。 「帰ってくるな」と言われた屈辱を、あの人は思いきり海に自分の生命を叩きつけることで表現したのであるに違いない。 ありとあらゆる人間性の弱点に不思議に通じていたナチはヨーロッパでは擡頭期から、ここという内政・外交の切所にさしかかると「美しい女を抱かせる」のを常套手段としたが、日本の、しかも一般世界から隔離されて生活してきた日本の軍人武官のようなナイーブさではひとたまりもなくて、当初はドイツをバカにしきっていた海軍軍人たちも、「親独派」に変わっていった。 イギリスには、ドイツにおけるのと同じもてなしを期待した日本の軍人が、「わたしのご婦人のほうはどなたに世話していただけるのでしょうか?」と訊いて、にべもなく、世話をする担当将校に 「われわれの国では、ご婦人と同衾するためには、その前に『恋愛』が必要なので、ご面倒でも、そこから始めていただかなければなりません」と言われたという話が残っている。 日本側には、これと同じ話が親日本的なドイツ人と較べてイギリス人の度しがたい人種差別の証拠として伝わっていたそうです。 最も決定的だったのは、最大の陸軍国、軍事的巨人とみなされていたフランスが、あっけなくドイツの機甲師団群に敗北して、インドシナが空白になったことで、当時の標語でいえば「バスに乗り遅れるな」、ドイツがアメリカやイギリスの主力をひきつけているこの隙に、軍事的な空白化している太平洋の西洋植民地をみな機敏に盗み取ってしまおう、という火事場泥棒の焦慮に駆られて、日本は太平洋戦争に突入してゆく。 なにしろオランダ人やフランス人が太平洋に放り出していったものを他人にとられないうちに掠め取りた一心だったので、うまいこと掠めたあとには、これといってやることも思いつかずに、オーストラリアを占領すればどうか、いや、いまこそ北のロシアを攻め取ればどうか、と述べているうちに、まだ工業余力が発生するまえの弱体なアメリカ合衆国の、劣勢な太平洋艦隊にミッドウエイで大敗北を喫するという失態を演じて、茫然自失のまま、アメリカが自分達の戦時工業生産の伸長にかかる時間を計算した結果しかけたガタルカナルという罠に見事にひっかかって、まるでアメリカの本格的な軍事生産を待って足踏みするかのような無意味な消耗戦に巻き込まれてゆく。 ロシアとの二正面から次第にナチを圧倒しはじめた連合軍は、1944年になると強大な正面の敵を打ち負かす見込みがついて、ようやく余力を太平洋にまわせるようになって、インド・マレーでも、それまで戦っていたひと時代前の装備の植民地軍から正規軍を相手にすることになった日本軍はひとたまりもなく本土へ向かって押し返されてゆく。 日本ではいまだに太平洋戦争は軍部や戦争を遂行した軍閥の観点から眺められていて、「白人の人種差別に対するアジア人のための戦いだった」 「白人の反アジア人連合に追い詰められた結果の自衛戦争だった」 ということになっているようだが、前者については、ぼくは面白い経験をしていて、学生たちの討論会で、「日本の戦争は白人からのアジア人解放という面があったと思う」と述べた日本からの(なかなか勇気がある)留学生に、歩み寄って、おもいきり平手打ちをくらわせた中国人女子学生のことをおぼえている。 ぼく自身は、どうとも思っていなくて、むかしのことでもあって、 日本のひとはドイツ人と違って考え方を変えていないのだな、と思うだけで、 平手打ちをしようと思うような強い関心がないようです。 「日本のいちばん長い日」という映画を昨日はじめて観たが、自分の頭のなかに入っている「日本終戦の日」の知識と同じで齟齬がないのは、実は、その知識そのものが、この映画のもとになったノンフィクションが暴いた事実に基づいているからに過ぎないからでしょう。 阿南惟幾が切腹自殺を遂げるところで、あれ?ここで阿南陸相は「米内を切れ!」と言ったはずだがなあーと思ったり、あ、近衛連隊が御文庫を襲撃したときにあの鎧戸を閉めたのは入江相政だったのか、とびっくりしたり、その程度の細部に異同があるだけで、なんだかずっと前にいちど観たことがあるような気がする映画だった。 そういうことがあるからか、映画で印象に残ったのは、まったくくだらないことで、 登場する人物たちが、やたら絶叫し、「声を励まし」、すごみ、慟哭し、感情を叩きつけて、まるで感情に酩酊した人のように振る舞うことだった。 映画の演出としてそうなっているのかと考えて、ぶらぶらとライブリに歩いて行って、戦争期のことについて誌した本を読んでみると、どうやら現実に当時の日本人は大声をだして叫び、怒鳴ることが多かったようで、へえ、と考えた。 英語人のなかではアメリカ人とオーストラリア人は「怒鳴る」人が多いので有名であると思う。 アメリカの人もオーストラリアの人も、喧嘩になると、大声をあげてわめきたてる人が多いのは、たとえば深夜に場末のバーに行くと、実証的に目撃できます。 ウエールズ人には「大声をあげる」という悪評がついてまわっていると思うが、それでも全体としては連合王国人は大声をあげるということを忌む。 たとえばイングランド人とニュージーランド人には観察していると喧嘩に面白い特徴があって、罵りあいをするまえに、まず先に手が出てなぐる。… Read More ›

  • To my young Japanese friends whom I haven’t met yet,

      I’m just going to dive right in here.   As we have seen, the word ‘integrity’ is not in the Japanese language. Integrity. Wait. What? Really. Let that sink in. The absence of the word integrity is a monumental… Read More ›

  • 日本語の本を出すということ

      むかしは、そんな理由じゃない!とむきになって否定していたが、最近は、考えてみて、やっぱり子供のときに日本に住んだということがおおきいのかも知れない、とおもう。   日本を離れて、すぐに忘れてしまったが、子供のときはたしかに日本語が話せたので、いま仮に録音があれば、案外カタコトに近いのかもしれないが、当時は、かーちゃんが出かけるところには、どこにでもくっついていって、店員さんなら店員さんの日本語を通訳するのが誇らしくもあり、嬉しくもあった。 読んだり書いたりするのは、ぜんぜんダメで、いまでも日本語を勉強しようとしたらしいノートが残っているが、ひらがなの「ね」が、全部裏返しになっている。 英語社会にもどってみると、日本にいたことは、まるで夢のなかの出来事のようで、そのうえ1990年代初頭の英語社会などは、日本語文明に限らず、他文明になど、まったく興味をもっていなくて、友だちと話していて、「そういえば、日本では、こうなんだよ」と述べても、「へえ」というおざなりの、気のない反応が返ってきて、次の瞬間、ホールデンの新しいユートが、いかにクールか、という話になっていった。   日曜日の朝には「セーラームーン」が放映されていて、それはそれで人気があったが、そこから日本文化に興味をもつ、というようなことは、あったとしても稀で、いま振り返って考えても、アニメとしてのおもしろさと、それが日本のアニメであることが結びついていなくて、鮨のような食べ物は強く「日本のもの」であることが意識されていたのと、好対照をなしていて、文明というものの面白さを暗示している。 義理叔父という存在が、自分の日本語にとってはおおきかった、ということはブログにも何度も書いている。 叔母が結婚した相手で、日本の人です。 当時から通常の日本の人と較べようもなくて、飛びきり英語能力があったが、それでも、ときどき、なにを言っているのか、まったく理解できないことを口走るので、気の毒に、遠慮などというものには縁がない、連合王国人やニュージーランド人に、よく揶揄われていた。 平気を装っているが、内心は深く傷付いているのは、叔母やぼくには感得されていて、なぜか英語の問題がいっさいなくて、時に、相手が、ふと会話を止めて「おまえの英語は、すごいな。きみ、ほんとうに日本人なのかい?信じられない」と、あながちお世辞でもなく述べてくれる人が、たくさんいた、カリフォルニアに越したいと口走ることがあった。 こちらが段々成長してくると、従兄弟と遊ぶために出かけると、よく顔をあわせる、この奇妙なおっちゃんと、自分には、あろうことか、いくつか共通点があることがわかってきた。 ・本をたくさん読む ・数学が考え方のバックボーンになっている ・コンピュータを中心としたハイテクノロジーに強く惹かれている オランウータンが木から落っこちてボーゼンとしているような、輪郭も表情もぼんやりした顔からは到底想像がつかないほど高い知能をもっていて、世界から表層を剥ぎ取って深層を見つめる能力を有している。 だいたい十三歳くらいになるころには、年齢がおおきく離れているにも関わらず「だいなかよしの友だち」と意識されるようになっていて、物理的におなじ国に居合わせれば、一緒に「つるんで」あちこちに遊びにいくことが多くなっていった。 この人が日本語の先生です。 いま考えてみると随分ヘンテコリンな選択だが、クリスマスのプレゼントに英語版の平家物語をもらったのから始まって、ラフカディオ・ハーン、最も決定的だったのは、「東京物語」を初めとする小津ムービーで、日本中探し回って、やっと手に入れたVHSの小津映画を一緒に観ていると、叔母も従兄弟も、わし両親も、みんながそわそわしだして、用事をおもいだしたり、眠りこけてしまうなかで、義理の甥っこだけが、目を爛々と輝かせて、コーフンさえ見せて手に汗を握って、淡々と語られていく映画を観ている。 やがて、ふたり映画クラブのようになって、「ゴジラ」や「ゴジラ対モスラ」を観くるって、感想を語り合うようになっていく。 英語字幕を借りなくても日本語がわかるくらいまで日本語能力が恢復すると、すっかり日本語そのものもおもしろくなって、義理叔父の書斎にあった筑摩書房の近代文学全集を片端から読んで、読み終えてしまうと、「美しい星」に出会った新潮文庫の三島由紀夫全集を読んで、とバリバリと日本語の本を読んで、若い人間というものは恐ろしいもので、到頭、岩波の古典文学大系まで全巻読んでしまった。 初めはご多分に洩れず思潮社の現代詩文庫だったが、岩田宏の詩集を手にして、なるほど、日本語とはこういう言語だったのか!と考えて、手に入る限りの詩は、「夜半へ」や「ショパン」の長詩を含めて、全部、暗誦できるようになったのは、この頃でした。 同じ頃、英語世界では、ポール・マルドゥーンのようなアイルランドの詩人たちが好きだったが、一方ではディラン・トマス、T.S. Eliot、W.H.オーデンの「昔の詩人」も大好きで、「荒地」という同人名に誘われて読み始めた、田村隆一や三好豊一郎、北村太郎に続いて、いま考えて、北村透谷や岩田宏と並んで日本語世界との最も決定的な邂逅になった鮎川信夫にめぐりあうことになる。 このあとのことは、ブログ記事になんども出てくる通り、日本語の読み書きができるようになると、他人に見せてみたくなるのが人情で、義理叔父が遊び半分に考えたゲームサイトの販促に始めた会社の人や義理叔父自身が書いていたブログを、ごく初期の途中から引き継いで、ver.1に中る、「ガメ・オベールの日本語練習帳」と称するようになったのが、そもそもの初めでした。 そこからは、十年を越えて、いままで、一緒に歩いてきてくれた人も、たくさんいる。 自分では、どんなものを書いているのか、よく判っていないところがあって、言われても、いまでもピンとこないが、「どうか掲載しないでください」という断りと一緒にくるコメントや、email、最近ではtwitterのダイレクトメールの形で、おおげさでなく膨大な数の 「あなたのブログのお陰で死なないですみました」 「ブログを繰り返し読んで、かろうじて生きている。日本の社会は、苛酷で生きづらくて、もし、あなたのブログがなければ、わたしは、とっくの昔に死んでいます」という、どれもたいへんな長文の、わしのブログなどより、ずっとすぐれた日本語で書かれた手紙が舞い込むようになっていった。 十年、日本語を続けてきた、というのは、そもそも40分以上おなじことをやれないので友人たちには、遍く知られていて、学生よりも若いのに母校の講師に抜擢されても、あっというまに辞めてしまうし、ガールフレンドに唐突に「飽きてしまった」と述べて平手打ちをくらったりしていて、とんでもない飽きっぽさが第一の人間としての特性である自分としては破格のことです。 多分、理由は、過去へ向かって読み返していくと、書くにつれてだんだん日本語が上手になってくるのが自分でも感じられていたからで、2015年くらいになると、自分では、機嫌がいいときなどには、「もしかして日本人よりも日本語、巧いんちゃう?」と自惚れられるくらいになっている。 そうは言っても、2018年くらいになると、流石にほんとうに飽きてきて、この間に起きた色々ないやがらせとはあんまり関係なく、自費出版でいくつかの記事を紙にしておいて、日本語全体から足を洗うべ、という気持になっていった。 500部、という数でいいのではないか、と考えて、なにしろ本人がIlluminated books、あの金箔と絵とカリグラフとゴージャスな色彩に満ちた、精巧な本の大ファンで、まさか蒐集はしないが、レプリカのコレクションまでもっているくらい「ものとしての本」が好きなので、いくらでもオカネをかけて、中身のテキストがボロいのはやむをえないとして、本としての体裁だけは美術品と呼びたくなるようなものをつくろうと考えた。 考えているうちに、線描画を書くのが好きなので、与謝野晶子の「みだれ髪」の初版に倣って、手描きの表紙がよいのではないかと考えはじめて、500もドローイングを描くのはたいへんなので、50部もつくればいいか、と計画を変更した。 自分では外国に住んでいることでもあり、どうにもならないので、能楽師で、学芸家でもある年長の友人に采配をお願いして、快諾をもらうところまですすんでいました。 めんどくさいので、口にだして、誰をどういう友だちだとおもっていて、どのくらい信じている、というような「私家版友情ミシュラン」みたいなことはしないが、このひとはすごいな、このひとは真の友人である、と考えていた人に失望するという「事件」が起きた。 敬意がおおきかったり、強い友情を感じていたり、信頼が深かったりする相手に落胆したときほど、怒りというものは強く、爆発的になる。 日本の人は「礼儀正しく怒らないとダメだ」「怒るよりも先に、なぜ話しあおうとしないのか」というが、はっきり言ってしまえば、そんなのは日本の人のチョー特殊な意見で、それが常識になっている日本語社会が、どれほど病んでいるか、という証左にしかすぎない。… Read More ›