美神の叛乱

日本人は長い間、本来、倫理において正しいか正しくないかという判断を美しいか美しくないかの美醜の判断に置き換えて、ものごとの是非を判断してきた。

特に武士階級において、そうで、あっさりと自死してみせる潔さや、いったん口にした約束を守る、というようなことは、日本の人にとって大切なことで、西洋にも、例えばラフカディオ·ハーンによって紹介された雨月物語の「守られた約束」

https://open-shelf.appspot.com/WeirdTalesFromJapan/chapter3.html

などによって、遍く知られている。

日本の近代の門扉を政略と軍事の才能によって押し開いた西郷隆盛は、日本人には珍しく漢籍に由来した倫理意識が強い人だったが、ものごとを評するのに、「醜い」「美しい」という語彙を使ったことは有名です。

その生涯を読んでいくと、晩年において、明治政府の役人がオカネと色欲に狂い、遊興を賄うために当然のように賄賂を手にしたことに対しても、その悲憤は、公務員の倫理、というような風には向かなくて、「やることが醜い」という怒りに震えて、東京を引き払って、鹿児島に帰ってしまう。

このころにはもう、実際にはなかなかハンサムであったらしい容姿にあっていて自他共に姿がよいことを認めていた大礼服は擲ってしまって、あの銅像になってよく知られた絣に兵児帯の姿で小網町を闊歩して、明治政府に巣くった成り上がりのイナカモンの華美に極端な質素で対峙して、その結果、世の中が不穏になるほど明治の醜悪を浮き彫りにするようになっている。

政略はもちろん倫理もなげうって、思い詰めた美意識だけで行動するようになっていきます。

日本の歴史を見ていて、息を呑む気持ちになるのは、それが美意識によって形作られた歴史であることで、戦争直前、戦時中のような、日本文明のスランプ時には、おなじ美意識でも、随分、低いものになって、ただ悲壮に酔って、一方では、美どころか獣性を剥き出しにして、市民の虐殺や、若い女の人に対する集団強姦に耽る一団のけだものたちを生みだしてゆく。

有名な例をあげれば戦記文学である「平家物語」は、中世日本人の美意識の物語で、当時の源氏の侍たちのあいだでは、陰謀好きで、実利のためには行動の美醜など鼻にもひっかけないと言われた梶原景時が、深入りして、四万人と誇張とともに描かれた平家武者たちに押し囲まれた息子の景季を救う為に、一騎で馬を進めて、分け入って、救出する姿の美しさが謳われ、おなじ景季の当人が、生田の森の戦いで、武士道そのものを「弓矢の道」と呼んだ通り、当時の主武器であった矢がどうしても当たらないので、社の裏に引き返して、箙に折った桜の枝を挿して、戦場に戻ると、今度は十発十中の勢いで、戦場を馬の背に乗って駆け回る、華やかな花が咲く桜の枝を挿した若武者の戦う姿に、敵も味方も声をあげて賛嘆したという。

あるいは那須与一が平家の挑戦を受けて立って、波間に馬をいれて、見事扇子の要を射抜いて、敵も味方も、「箙をたたいて、どよめきにけり」と描かれている有名な一節を、知らないで一生を終わる日本の人はいないでしょう。

以前から述べてきたように、西洋文明に対して、ごくごく浅薄な理解しかもてなかった近代日本人は、強国とは強い軍隊を持つ国だと、びっくりするような子供じみた単純化で近代化をすすめて、とにかく形が似ればいいんだろう、とばかりに、耶蘇教だけはやばいよ、おれはこの目で観て知ってるんだ、という明治の元勲中の大物、木戸孝允の言を容れて、キリストでなければどうするか、鳩首をあつめて、結局、天皇という言葉を発明して、これをキリストの位置に置いておくことにした。

なにしろプレハブ建築の近代なので、「倫理」のような何の役に立つかわからないものは、訳語すら与えないで、不要不急の、「どうでもいいもの」に分別して、納戸の奥の暗闇にほっぽっておくことにしたのは「integrity」ほかの記事に、しつこいくらいなんども書いてあります。

論理は美醜を判断しない。

美醜を判断するのは感覚です。

文明の模倣者として倫理は採用しなかったが、日本人は、代替として、両脚を失った人が雄大な腕の筋肉を手に入れるように、あるいは聴覚を失った人が鋭敏な視覚を手に入れるように、美への感覚を研ぎ澄ましていった。

他国とおなじに「国を愛する」ということの意味を誤って理解しているひとたちが、胸をそらしすぎて仰向けにひっくり返ってしまわないのが不思議なくらい、ほんとうは日本の人が民族として誇りにしうるのは、世界中の人が異議もなく認める日本人の美意識の高さと鋭さで、能楽の、あのぞっとするような幽玄をあげなくても、暗闇に、かすかな蠟燭の光で、ぼおっと浮き出る金箔を張り込んだ屏風や、戦慄するほどの日本刀の青白い刄の光、松風やセミの声にまで神韻がひびきわたるような美を見いだして、実際、考えてみて面白くて仕方がないのは、倫理は、あれほど約にたたないから、と述べて、簡単に打ち捨てて見向きもしなかったのに、誰に頼まれるでもなく、誰かが唱道するというわけでもなく、西洋の美、西洋美術だけは、なんのあてもなく、ひたすら吸収していく。

日本社会は、どこまでも不思議な社会で、美に憧れることは、あまりに当たり前なので、誰も自分たちが、いかに「美しいもの狂い」と言いたくなるほど、食べるものも食べずに、美しいものに焦がれ続けてきたか、意識もしたことはないように見えます。

ときどき、半分は冗談だけれども、これから倫理を文明に組み入れていては、時間がかかりすぎて、哲人どん、哲学者田村均先生などは、「500年くらい待ってもらわなくては困る」などと不穏なことを言い出す始末で、そんなに、歴史から考えて、また窮すれば国として暴れだすに決まっている日本の人たちの横暴に耐えるわけにはいかないので、いっそ、美醜を倫理の代わりに言語を通してシステムに組み込んでしまえばいいのではないかと考えることがある。

美しいか美しくないか。

どうやら辞職に追い込まれたらしい菅首相は美しい人であったかどうか、安倍首相は美しい人間だったかどうか、日本の人なら、考える必要もなく判断がつくでしょう。

アフガニスタンのひとびとのあいだには、面白いことが起こっていて、

タリバンが押しつける、イスラム世界のなかでも古くさくて田舎染みたアフガンイスラム文化は、美しくないから拒否する、アフガニスタンは、もっと美しい国なのだと国外のアフガニスタン系人や、難民、国内の家で逼塞している若い女のひとたちが、twitterで、#AfghanWomen #AfghanistanCulture のハッシュタグをつくって、みな思い思いの伝統衣裳を身に付けた画像付きのtweetのうねりが起きている。

美に拠る、「美しくない」教条主義への叛乱で、こういうものは初めて見たが、パッと見ただけで、あの、パンジャビから中央アジアにかけて広がる、独特の強い明るい色彩に彩られた文明の美しさは紛いようもなくて、もっさりして、暗闇でごそごそしているのが似合うようなタリバンに対する伝統文明の優位は、どんな人の眼にもあきらかです。

どれほど言葉を費やして説明されるよりも、一枚の画像が、タリバンという新興の田舎文明の貧弱さを雄弁に説明してくれる。

ふと、日本の人にも、世界に名だたる美意識を政治や社会の改革の武器にする、やりかたがあるのではないかと考えました。

なるほど歴史が教えるように美醜を政治や社会に持ち込むのは、大変に危険なことだが、逆に、日本の人には、その危険性を理解するだけの高い知性の持ち合わせがある。

このまま座して言語と文明の死を待つよりは、いくらか高いサバイバルの可能性があるのかもしれません。

https://twitter.com/tahmina_aziz/status/1437155213685653506

https://twitter.com/WazhmaAyoubi/status/1437340977631571969

https://twitter.com/womensart1/status/1437500764998492164

https://twitter.com/yousafzailaiba3/status/1437473352340451333

https://twitter.com/SophiaKhanm/status/1437315370508066819

https://twitter.com/Wida_Karim/status/1437427735513632776

https://twitter.com/bestdressedafg/status/1437463685916729344



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10 replies

  1. 得意分野よ!それなら任せておいて😉🦾

  2. 日本人にとっての光明。日本人が日本人として生き残る手がかりかもしれない。

  3. アフガンのあの民族衣装の気高さには目を奪われました。衣装だけでなく、女性たちの表情もとても艶やかで美しい。

    「美」は、人間として生きることに繋がっているのだと思われます。

    この夏、お盆の日に、古着の買い付けと再販をしている友人が下記の投稿をインスタグラムにしていました。
    https://www.instagram.com/p/CSlp_QahlM-/?utm_medium=copy_link
    (このリンクをご覧いただけるといいのですが)

    (トイレに行くとき「よっこい、しょういち」と言って立ち上がっても、理解できるのはおそらく少数であろう)あの横井庄一さんが、グアムのジャングルで、「元洋服屋の技術を生かし、パゴの木の薄皮をはいでアク抜きし繊維を作り、手製の機織りで布にし、縫い上げて、半年がかりで完成」させた洋服なのだそうです。戦争が終わって22年後に56歳で発見された横井さんは、28年間ジャングルに身を潜め、最後の8年間は、お一人だったとのこと。古着屋さんの友人は、インスタに「生きていくために必要なものの中にも自分の美学やこだわりを、ちゃんと含めて、ゆっくりと出来ていくそのモノを見ては うっとりしたり、うっとりするほどの余裕はなかったとしても、なにかしらの良い気分、自分をあげてくれる気持ちがそこにあったのかな、そういうものが、生きることにきっと必要っていうか、力になったと、思う。」と書いています。

    私の母は、19歳で婚約し20歳で嫁入りしました。父が熱烈に母に求婚したそうで、母は冗談か本気かわからないけれど、「お母さん、お父さんに絆されて騙されたわ」と言っています。それもそのはず、姑である明治38年生まれの祖母は母に自由に外出もさせない人でした。そんな祖母が103歳で亡くなるまで、母はひたすら仕えたのですが、母の仕事が和裁だったことがもしかしたら、母の生きる糧になっていたのかもしれないと、記事を読んで、思いを馳せました。呉服屋さんから届く反物を裁断して、柄を合わせ、一針一針、柄と同色の絹糸で縫い、着物の形を作っていく。気の遠くなるような手仕事なのですが、仕立て前の反物も帯も、仕立て上がったそれらも、それはそれは息を呑む美しさなのです。地方地方の染め方と柄と生地があるのも独特で、結局私は着物のことは何も覚えられなかったのですが、中学や高校のころ、学校から帰ってきて、仕立てをする母の隣に座って、着物を眺めながら、今日あったことを話す時間が私はとても好きでした。美しいものを目の前にすると心が踊ります。美しいものは圧倒的な力を持っています。上滑りの言葉や活動ではなく、生きることと直結するものがあります。

    日本語では、「政治や社会の改革」を行うことが非常に難しい。倫理も道徳も人権もごちゃ混ぜ。ガメ氏がおっしゃるように、美をもって「政治や社会の改革の武器にする」ことが日本語で可能なのか、私には正直わかりません。でも、やってみる価値はあると思います。何よりも、美は、私たちの生活に根ざしているからです。政治はどこかの誰か偉い人たちが行うものだと考える人が大方の全体主義の今の日本においては、私の、私たちの、生活に根ざしている、というそのことが必要で、大きな意味を持つと思われます。

  4. アフガニスタンの伝統衣装に目を奪われてしまったので、後でまた読んで考えます。素晴らしい。

    • 西郷隆盛はその美しさで人気があったのですね。今でも死を背景にした武士道のような価値観だけは残っていて自己犠牲は礼賛されます。そこが「大変に危険なこと」なのでしょうね。美意識に「死」ではなくて「倫理」を取り込んで、倫理的であることが美しいという事になれば。そして「お花畑だ」とか「現実を見よ」の声を抑え込めれば。そこに希望がありますね。

      • 容貌魁偉、ということになっているけど、生きているときにあったことがある人の証言では洋服が似合う、ハンサムさんであったらしい

  5. 西郷隆盛はその美しさで人気があったのですね。今でも死を背景にした武士道のような価値観だけは残っていて自己犠牲は礼賛されます。そこが「大変に危険なこと」なのでしょうね。美意識に「死」ではなくて「倫理」を取り込んで、倫理的であることが美しいという事になれば。そして「お花畑だ」とか「現実を見よ」の声を抑え込めれば。そこに希望がありますね。

  6. 半藤一利と宮崎駿が対談で零戦について語っているのを思い出したよ。
    零戦のシルエットが持つあの美しい微妙な曲線、あれは絵にするのはとてもとても難しくって、零戦を美しいと思う人間ほど零戦を絵にすることの難しさに心やられて諦めてしまうらしい。

    で、坂口安吾がソ連製のI-16の合理性を称揚して、たとえ見てくれがずんぐりむっくりで醜くとも、その追及された合理の持つ美しさこそが本物だと言ったことに触れるくだりがあるんだけど、その時、宮崎駿は外見に囚われずI-16の設計思想が持つストイックな美しさに触れてくれた坂口安吾の合理主義に歓喜する一方、半藤一利が、日本人の美意識を脇においてまでロシア人の工場臭い合理主義を褒めそやすなど身も蓋もない振舞だ、と怒っていたのが印象的だった。

    この二人の美意識には戦中世代と戦後学生運動世代の感覚の違いがはっきり表れていて面白い。

    しかし兵器をスペックではなく美しさで語ろうとする二人の姿こそ、美しいと思うんだよなぁ。

    • UK人とスピットファイアの話をすると、「なぜ、この人はスピットファイアと結婚しないで、私と結婚したのだろう?」という強い疑問が湧くそうです。

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