頭で言葉を使って考えるよりも、考えるのは言葉のほうにお任せにしてしまって、言葉がつれてきてくれた考えを頭が整頓して、これはこういう考えなのではないか、きっと、これはこういう文脈が背景にあるんだよね、と、頭さんと言葉さんが談合して、いろいろに決まるほうが好きなので、
口から出てしまったり、文章を書いてしまってから、ああ、そうか、自分はこういうことを述べたのか、とおもうことが多くある。
なにしろ言葉には、語彙にしろ、その組み合わせである文であるにしろ、
太古の昔からの無数の叡知が詰まっているので、いまできの大脳でひとり呻吟するより、言葉の知恵を借りたほうが早いのだと言われている。
昨日書いた記事を読むと
途中、「好感なんて他人に持ってもらいたいと思わない人間が、案外な数で跋扈している英語人」と書いてあります。
なんで、こんなことを書いたのかわからないが、言われて見れば、….言われてみれば、って、自分で書いているんだから、ヘンな言い草だが…
英語人は、日本語人と「別に他人に自分を好きでいてもらおうとおもっていない」という、いわば基調底音のところで、文化として、ものすごく異なるのではなかろーか。
例えばですね。
きみは、いまや愛する娘に大好きな相手が出来て、結婚しようとするに際して、なるべく華やかで、天使も妖精も、空から舞い降りて、森から抜け出てきて、総出で祝福してくれてでもいるような、記憶に残る結婚式にしようとしている。
学校のなかよし同級生のなかに、いまでは世界に名前が知られたソプラノ歌手の友だちがいるので、最後に会ったのは、もう去年のことになってしまったが、 娘と大層なかがいいことでもあるし、祝宴に花を添える意味で、出席してもらおうと考える
Emailを出します。
文面を考え、娘が、あなたの顔を観たら、どれだけ喜ぶだろうか、という意味のことを、我ながら美しい英語で、書いて送る。
ところが、ところーが。
諾も否も、いやも応も、OKもダメよも、なんにも返答が返ってこない、
待てど暮らせど、なんにもお返事が返って来ません。
業を煮やしたきみは、やおら、このあいだやっとフリップ式からスマートフォンに変えた折りたたみ可能スクリーンの携帯電話を取りだして、ソプラノ歌手友に電話する。
留守番電話などではなくて、話し声でさえ、女神を連想するほど心地よい、
女友だちの声が聞こえてくる
Email、見てくれた?
ううん。まだ。
わたくし、この頃、老眼で、文字を読むのが面倒なのよ。
では、ということで、要旨を説明すると、友だちは、
じゃあ、emailを読んでからご返事するわね、と述べている。
やれやれ、とおもって、あの様子じゃ、ちゃんと来てもらえそうだ、と員数にいれて準備を進めます。
ところが、ところーが。
またまた、ところーが。
それから1ヶ月経っても、うんともすんとも言ってきやしない
ここに至って鈍感なきみにも、やっと、友だちが結婚式にやってくる気など、初めからありはしなかったことに、気が付いている。
くっそおー、あのクソババア、なめたことをしやがって、
ケツの穴から手え突っ込んで奥歯ガタガタ言わしちゃるぞ、
それとも、通りの真ん中で、引き倒して、スカートもニッカーズも引っ剥がして、お尻ペンペンしちゃろうか。
憤懣やるかたなく、激怒する、きみ。
そうこうしているうちに、混乱した頭のなかから、さまざまな疑問が吹き出してきて、なかよしなのに、なぜ来ないのか、
娘が結婚する相手が同性の女の人だから?
それとも女房となにかあったのだろうか?
困ったなあ。
往々にして、真因は、単純に「行きたくないから」でしょうが、それはまあ、いまはどうでもよろしい。
英語社会では、取り分け、日本の人が嫌いでなくもないらしい上流社会では、「そんなことしたら、世間様の評判が落ちるやん」なことをする人が、たくさんいます。
なんちゅうことをしてけつかるねん、このクソババア、と思われている本人の心中に立ち入ってみると、
「なんで、わたしが世間の評判を気にしないといけないの。わたしは世間の使用人じゃなくってよ」ということでしょう。
どうも「人に嫌われる」ということの重みが、英語と日本語では、ずいぶん異なるような気がする。
すべてにおいて、そうで、常々ボスの肩を揉んで差し上げて、「ウイ奴じゃ」とボスのほうでも思っていても、だからといって昇進のプラスになるとはおもえない。
結婚においては、さらにそうで、好もしい人格で、誰かの身体のぬくもりを感じたいときのセックスも上手で、いつも満足させてくれる相手でも、結婚となると、自分の頭のどこかから、光球となって飛んでくるような霊感が起こらないとよもや結婚しようとは考えない。
….最後の結婚の例は、少し、違うか。
例になってないね。
まあ、いいや。
別に他人に好かれたいとおもってませんから、という態度が一般的なことには、ほかに、自分が誰かが嫌いだからといって、言葉にだして言い募る人間は人間として最低の部類に属する、という社会の一般認識にも原因があるでしょう。
まして、職場や、教室や、ネット上で、徒党をなして、誰かを非難中傷する人間のクズ行動においておや。
エチオピア出身の陶芸家の友だちに聞くと、エチオピアは、香港人のシルビア(←共通の友人です)が香港人について嘆いていた「ノーというと悪い評判を立てられる」の比ではないという。
嫌われると、あの手この手の不正な手段で、ワルモノにされて、下手をすると金銭的に身ぐるみ剥がれる。
「未開人のやりくちだよね」と自国には心底うんざりだ、という調子で話しています。
もしかすると、
わたしはわたしよ。
わたしのやることが気に入らなければ、あなたの好きに受け取ればいいわ
という欧州人の考え方のほうが変わっているので、
そういう態度を許容している欧州文明は、特殊な文明なのかもしれません。
他の社会もそうなのかどうかという問題は、どうでもいいとして、
日本にいるときに、このひとたちは他人の視線を気にしすぎるのではないか、と考えたのは事実でした。
そのうえ、ひとりでいるときには善良そのものの表情を湛えている人が、徒党をなすと、人非人然、としたことを平然と言い出す。
親と同居している日本の男のひとたちは、日本の女のひとたちには敬遠されるので、外国の女の人と結婚する例が、とても多い。
で、日本の事情を知らず、ナイーブにも日本社会に溶けこもうとして義母に従順な態度でも見せた日には、夫の家族が「徒党」と化して、あることないこと言い立ててイジメにかかります。
地方であると、とにかく男の子供を孕ませりゃ、それで用済みだ、あとはいびりだしちまえばいいんだ、という例が多いようでした。
生まれ故郷のタイランドやベトナムに戻って、日本人と一緒になることがいかに危険なことか運動めいたことをしている人もいて、たったひとりの運動は、文字通りの蟷螂の斧だが、それでも、効果よりもなによりも、内から突き上げる、やむにやまれない後悔の気持ちに突き動かされるのでしょう。
お互いの「他人の視線」同士が絡み合って、恐ろしい「絆」になって、人間を悪鬼の集団に変えていく過程は日本語の社会では、これでもかこれでもか、と見せつけられることになる。
日本語の人たちの難しさは、自分が世界でゆいいつの、他者とは互換することができない存在である一個の人間であって、人間と人間の関係性の世界は、それとは別の次元の、いわば取り外し可能な、可換性世界なのであるという、本質的な価値の違いが、明瞭には意識されていないところにあるよーでした。
若い日本語人に出来るアドバイスがあるとすれば「日本語以外の世界を見てくるのがいいとおもう」になるはずです。
出来れば留学や移住ではなくて、ただ傍観するひととして、半年なら半年、滞在するのが理想的でしょう。
日本語とは異質の世界を「見る」ためには、その世界の言葉が身についていなければ、やはり難しいかな?
日本語で見ているバルセロナは、日本語に射した影にしか過ぎなくて、
ありのままのバルセロナ人が見え始めるためには、カタロニア語ならば申し分ないが、せめてスペイン語くらいは、自分の言語として身についていなければ難しそうです。
急に言語を身に付けろと言われても困るので、まず行ってみて、少しその町の言語の「音」に馴染んで、今度は、その言語を使ってみて、怪訝そうな顔をされたり、笑われたり、励ましてもらったりしながら、
その町と、押してみたり引っ張ってみたり、撫でてみたりしながら、交渉する。
なんだか、しつこく判ろうとしているうちに、いつのまにか、遠くまで歩いてきてしまった人のように、周りの風景が変わり、人の姿や表情が細かく鮮明に見えてきて、なによりも有り難いのは、自分の姿が見えるようになってくる。
そのとき初めて、きみは「旅」に出たことになるので、
旅人が常にそうであるように、一個の、水平世界から起き上がって、垂直に起立した
「個人」という存在に変わってゆく。
もし、きみが、それを望むなら、ということだけどね
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一言だけ。
You do youって日本語でうまく言えないんですよね。
わたしはわたしよ、はニュートラルな言い方ですけど、口語でもっと普通に使いそうな「勝手にしなさい」はやや冷たい言い方で、繰り返さないけれどガメさん理論のいい例になっている。
英語でも、すらすら言葉に考えさせられるように、早くなりたいな。
でわ
ガメさんこんにちは。
偶然にもインスタにこういう投稿をしました。
年初、数年ぶりにシュラスコを食った時のやつです。
コロナでなかなか食いに行けませんでしたが、久々にある感覚を思い出しました。
> https://www.instagram.com/p/CYPBTRYhpdm/?utm_source=ig_web_copy_link
私は生まれてから基本的に誰にも(自分自身や家族にさえ)興味がない人間で、にもかかわらず誰とでも仲良しでないと気がすまないタチなのは、人に嫌われることが危険な非欧州文明圏だからか。
「人に嫌われる勇気」(書名)がこの国で妙にひとびとの琴線に触れて売れた訳だ
旅のあと個人という存在に変わってゆくひともいるのでしょうけど、わたしは、わたしよと言いそうにもないがらんどうの魂の持ち主である私の場合、もう全体の一部として生きて死ぬのだろうな。
日本語人であるのにこんなに、嫌われてずっと1人(家族はいるけどね)で平気なのは思考的に英語人だったからなのか?と思わされる、なんとも合点のいく記事でした。
つい先日も取引先と喧嘩(論理的な意見、主張を言っただけ)して、おそらく今後は取引しないであろう状態になってます。相手がどう思うかは問題ではないというのがこちらのスタンスなので、きっとガメさんがいう英語的な考え方なのかも。
あ、ガメさん、コメント取り消します。
内容が良くなかったです。ごめんなさい。
外国に出るお金か暇か勇気がないならまず国内のモスクとか日系ブラジルの人(ブラジル人でなくても他の国の人でもそういうような)のコミュニティにボランティア的な顔で出入りしてみるのも良いのかもと思います。
モスク出入りしてると外国人と結婚する日本人の入信儀式の証人頼まれますが、どちらか言えば日本人女性が外国人男性と結婚するカップルの方が多い感じですね。日本人男性は信仰というものには抵抗が強いようで神様に土下座する宗教だからなおさらなのかな?